LOGIN「それは――」 見習い女中は、怯えるように唇を震わせた。「……姉から、頼まれたのでございます」「お姉様から?」 麗香が聞き返すと、娘は泣きながら頷いた。「姉は、桐生様のお屋敷で奉公しております。今朝、こちらへ訪ねてきて……どうしても話したいことがあるからと、裏口で少しだけ会いました」 今朝――。 その言葉に、麗香は眉を寄せた。 自分が御影家へ来たのは、昨夜のことだ。 それなのに、夜が明けるや否や、この娘の姉は動いていたことになる。「何を頼まれたのです?」 女中頭の志乃の問いに、娘は俯いた。「麗香様が……御影家の皆様から信用を失うようにしろ、と」 小夜が息を呑む。「それで、母様の香箱を?」「申し訳ございません!」 娘は床へ額がつきそうなほど深く頭を下げた。「小夜様が、あの香箱を何より大切になさっていることは存じておりました。なくなれば必ずお探しになると思って……それを麗香様のお部屋へ隠せば、きっと……」「私が盗んだと思われる、と」「……はい」 掠れた声が落ちた。 麗香は香箱を見る。 黒漆の蓋に描かれた銀の月が、夕暮れの光を受けて淡く浮かんでいた。 もし香りに気づかなければ、御影家へ来た翌日から、義妹の私物を盗んだ女として暮らすことになっていただろう。「姉様も、泣いていました。私に何度も謝って……でも、断れないのだと」 娘が必死に言葉を継ぐ。「なぜですの?」 小夜が問う。 娘はしばらく答えられなかった。 やがて、観念したように口を開く。「父が長く病を患っております」 震える声だった。「薬代がかさんで、暮らしていけ
それから麗香と小夜は、使用人たちとともに屋敷の中を探し始めた。 小夜の部屋はもちろん、隣の書斎や客間、廊下の飾り棚まで一つずつ確かめていく。 香箱は小ぶりなものだという。 どこかへ紛れ込んだだけならば、さほど見つけにくい品ではないはずだった。「小夜様。今朝、お部屋を出られる時には、文机の上をご覧になりましたか?」「いいえ。女学校へ遅れそうでしたから、慌ただしく支度をして……」「でしたら、昨夜から今朝までの間に動かされたのですね」 麗香は歩きながら、昨夜からの人の出入りを一つずつ聞いていった。 小夜も初めは硬い声で答えていたが、やがて自分から「あちらの部屋も見てみましょう」と言い出すようになった。 疑いが晴れたわけではない。 それでも、ただ疑われているだけよりはよかった。 何より麗香は、どうしても香箱を見つけたかった。 亡き母の形見を失う痛みならば、自分にも分かる。 踏みにじられた写真の中で、それでも優しく微笑んでいた母の顔が、今も目を閉じれば鮮明に浮かんでくる。 小夜にも、その香箱を開くたびに蘇る母の面影があるのだろう。「……ありませんわね」 小夜がぽつりと漏らした。 探し始めて、もう半刻ほどになる。「まだです。もう少し探してみましょう」 麗香がそう答えた時だった。「小夜様!」 廊下の向こうから、一人の女中が駆けてきた。 息を切らし、その顔には明らかな動揺が浮かんでいる。「どうしたのです?」「香箱が……見つかりましてございます」「本当に!?」 小夜の顔が一瞬にして明るくなる。「どこにありましたの?」「それが……」 女中は言い淀んだ。 そして一度、麗香の顔を窺う。「麗香様のお部屋に」 小夜の表情から、喜びが消え
御影家で迎えた最初の朝、麗香は見慣れない天井をしばらく眺めていた。 厚い帳の隙間から春の光が差し込み、昨夜は闇に沈んでいた象牙色の壁紙を淡く照らしている。窓の外からは小鳥の声が聞こえ、その向こうでは庭師が掃き寄せているのだろう、竹箒の乾いた音が一定の間隔で響いていた。 静かな朝だった。 枕元の小箱へ目を向ける。 その中には、昨夜、朔から渡された離縁状が収められていた。 ――妻にしたからといって、お前のすべてが俺のものになったわけではない。 昨夜の低い声が、もう一度耳の奥で蘇る。 麗香はそっと小箱の蓋を閉じた。 身支度を終えて階下へ降りると、食堂にはすでに朔がいた。 軍服姿で新聞へ目を通している。「おはようございます」「ああ」 相変わらず簡潔な返事だった。 麗香が向かいの席へ腰掛けたところで、廊下の向こうから足音が近づいてきた。「兄様」 若い女の声だった。 朔が新聞から目を上げる。「小夜か」 入口に立っていたのは、十六ほどに見える少女だった。 若草色の着物に、白い小花をあしらった帯留め。黒髪は艶やかに結い上げられ、顔立ちは朔とどこか似ている。けれど兄のような鋭さはなく、まだ少女らしい柔らかさが残っていた。 ただし――麗香へ向けられた目には、笑みがなかった。「こちらが?」「ああ」 朔が短く答える。「麗香。妹の小夜だ」 ――妹。 胸の奥で、何かが小さく強張った。 一瞬だけ、珠緒の面影が重なる。 麗香はそれを悟られぬよう、静かに頭を下げた。「初めまして。麗香でございます」 小夜もまた、華族の令嬢らしい申し分のない所作で頭を下げる。「御影小夜と申します」 声も礼儀正しい。 それでも、その距離は明確だった。 小夜は麗香の隣へ座らず、朔の側の席へ腰掛けた。
華族会館を離れた自動車の中で、麗香は膝の上に重ねた手をじっと見つめていた。 窓の外では、夜の帝都が後ろへ流れてゆく。 瓦斯灯の明かり。軒を連ねる商店。夜更けだというのに人影の絶えない大通り。見慣れていたはずの景色が、今夜はどこか遠い国のもののように思えた。 もう、桐生家へは帰らない。 その事実だけが、車輪の音に合わせて胸の奥へ沈んでいく。 向かいに座る朔は、窓の外へ目を向けたまま何も言わなかった。 黒い軍服。端正な横顔。華族会館では、ただそこに立っているだけで人々を黙らせていた男。 この人が、今から自分の夫になる。 そう考えても、まだ現実味はなかった。「先ほどの話だが」 不意に朔が口を開いた。「はい」 「これは三年間の婚姻と考えている」 麗香は顔を上げた。「三年……でございますか」 「ああ。その間、お前には御影家の妻でいてもらう。ただし、俺かお前のどちらかが本当の番を見つけた場合は、その時点で終わりだ」 迷いのない言葉だった。「俺はお前に愛情を求めない。お前も、俺に求める必要はない」 あまりにも乾いた約束だった。 けれど麗香は、傷つかなかった。 愛していると囁きながら裏切られるよりも、最初からそこにないものとして扱われるほうが、今の自分にはずっと信じられる。「……承知いたしました」 それだけ答えると、朔もそれ以上は何も言わなかった。 再び車輪の音だけが二人の間を満たす。 やがて自動車は帝都の中心部を抜け、夜の静けさが濃くなり始めた頃、高い黒塀に囲まれた屋敷の前で速度を落とした。 鉄門が静かに開き、自動車は広い敷地へ滑り込んでいく。 奥に見えてきたのは、麗香が想像していた軍閥の屋敷とは少し違う建物だった。 石造りの堂々たる洋館でありながら、左右には瓦屋根の和館が連なり、庭には松と桜が静かに枝を伸ばしている。 正面玄関の灯は柔らかな橙色を帯び、深
「誰が、俺の女に触れていいと言った?」 低く放たれたその言葉は、決して声を荒らげたものではなかった。 それでも、春風に揺れていた桜の枝さえ動きを止めたように、庭園には重い静寂が落ちた。 御影朔の前で、先ほどまで麗香を連れ去ろうとしていた桐生家の使用人たちは、視線すら上げられずに立ち尽くしていた。 「……御影少将」 和馬がようやく口を開いた。 声には努めて平静を装っているものの、その額には細かな汗が浮かんでいる。 「これは、桐生家の内々の問題でございます。いかに御影家のご当主といえど、他家の家中へ口を挟まれるのは――」 「内々の問題なら、人前で娘を処分すると宣言するものではないな」 朔は振り返りもしなかった。 黒い軍服の背に麗香を庇ったまま、ただ淡々と告げる。 和馬は言葉に詰まり、周囲の華族たちから小さなざわめきが起こった。 冷酷軍閥と恐れられる若き少将が、契りの香すら持たぬ令嬢を庇っている――それだけで、明日の帝都を駆け巡るには十分すぎる噂だった。 「……御影様」 麗香は、目の前の広い背中へ恐る恐る声をかけた。 なぜ、この人は自分を庇うのだろう。 先ほど初めて名を知ったばかりの、帝都中から恐れられる軍人。 その背中に、腕へ抱かれた時のあの夜の温もりが重なる。 けれど麗香は、すぐにその考えを押し殺した。 あの夜の男の顔さえ、自分は知らないのだから。 「……どうして、私などを」 麗香の問いに、朔はようやくこちらを振り返った。 黒い瞳が静かに麗香を見下ろす。 その目には、同情も。 欲望も。 ましてや、一目で恋に落ちた男の熱など、何一つ浮かんでいなかった。 「お前は今夜、この家へ戻れば殺される」 あまりにも端的な言葉に、麗香は息を呑む。 「そして俺には、妻が必要だ」 「……妻?」 周囲のざわめきが、一段大きくなった。 和馬の顔色が変わる。 欄干の上から成り行きを見下ろしていた珠緒も、初めてその柔らかな笑みを消していた。 朔は何事もないように続ける。 「御影家は軍功によって立った家だ。旧華族から見れば、今でも成り上がりに過ぎん。家を盤石にするには、古い家柄との縁が要る」 そう言って、朔は麗香へ目を向けた。 「
夜会は、なお華やぎの最中にあった。 水晶のシャンデリアは幾千もの光を降らせ、円舞曲は絶えることなく大広間を満たし、色とりどりの衣装をまとった華族たちは、春の終わりに咲き誇る花々のように笑みを交わしている。 その輪の中にありながら、御影朔だけは誰とも言葉を交わそうとはしなかった。 若き陸軍少将。 新政府を支える御影家の若き当主。 戦場では鬼神のごとき采配を振るい、政敵には容赦なく刃を向けることから、帝都では「冷酷軍閥」と囁かれる男である。 今宵、彼がこの夜会へ姿を見せた理由もまた、決して社交を楽しむためではなかった。 御影家は新興華族である。 軍功によって家名を興した以上、旧華族との結びつきを強めなければ、その地位は盤石とは言えない。 そのためには婚姻が必要だった。 家臣たちは皆、今夜こそ朔が伴侶を決めるものと期待している。 朔自身も、それを拒むつもりはなかった。 愛などなくとも構わない。 家のためなら結婚くらい受け入れる。 そう割り切って、この場へ足を運んだのである。 しかし――。 誰一人として、彼が心を動かされる女はいなかった。 香水を重ねた令嬢。 香木を焚き染めた袖。 笑みも、言葉も、立ち居振る舞いも非の打ちどころはない。 それでも、彼女たちから漂う香りは、どこか作られた花のように感じられてならなかった。 朔は人の顔より先に香りを覚える。 香りは偽れない。 怒りも。 嫉妬も。 恐怖も。 欲望も。 戦場では、それだけを頼りに幾度も生死を分けてきた。 だからこそ、磨き上げられた笑顔の奥に隠された打算や虚飾が、香りとなって鼻を掠めるたび、胸の内だけが静かに冷えていく。(……違う) 誰でもいいはずだった。 それでも、ここには彼が求めるものはなかった。







